質問です。
信号の「進んで良し」は「青」でしょうか?
それとも「緑」でしょうか?
僕はどう見ても「緑」だと思います。
まぁ、光の差し加減やその周辺の色によって、もしくは人によっては「青」かも知れません。
だから「緑」か「どちらでもOK」が正解のはずです。
小学1年の僕は、この質問に「緑」と答えて、それから12年続くイジメへの扉を開いてしまいました。
そして今。
人と違うことを口にすれば、たとえそれが正しいことでも、匿名の仮面で安全を確保した卑怯者に袋叩きにされる。
場所がネット上に変わっただけ。
30年以上たつのに1ミリも変わらない数の暴力。
アンデルセン童話「裸の王様」では「王様は裸だ」と叫んだ子どもによって、王様は自分が裸であることを悟りますが。
今の日本では、叫んだ子どもは民衆によって袋叩き、王様は裸であることに気づかないまま。
・・・うーん、Bloody。。。
信号の色は青?それとも緑?子どもをイジメられたくなければ「青」と答えるよう厳しく教えてください!!
あれは確か小学1年の図画工作の宿題品評会。
「街の風景」とかそんなので絵を描いてくる宿題があって、それを壇上に一人ひとり出て、発表してた時のこと。
僕は交差点に並んでいる車とか、信号待ちしている人の絵を描きました。
絵心はないほう、というかこの事件で嫌いになってしまったのですが。。
自分なりに頑張って描いたわけです。
それに対して先生はおっしゃいました。
「小鳥遊くん。信号を緑に塗ってるね。青の絵の具が足りなかったのかな?」
僕は答えました。
「先生。信号は青じゃなくて緑です。」
クラスメイトたちは口々に言いました。
- 「小鳥遊くん、信号が緑なんておかしいよ。」
- 「信号は青だって教わったよ。小鳥遊くんは間違ってると思います。」
- 「小鳥遊くんは悪い子だと思います。」
- 「小鳥遊くん。先生に教わったことはちゃんと守らないとダメだよ~」
・・・
先生からは・・・再提出を命じられました。
そして、
- そのことをネチネチといじられ
- ドッジボールでは標的にされ
- 教科書は捨てられ
- 靴は隠され
- イスには画鋲を仕込まれ
・・・
自分から集団を避ける子どもになりました。
そんな子ども、どこへ行っても受け入れられるわけがありません。
相手を信用していない、怖がっているオーラは見透かされます。
何度転校してもイジメられました。
お前ら、先生が「青」っていうから信号は青なのかよ。
お前らの目は何のために付いてるんだよ。
・・・信号の色を緑で描いたくらいで、何でいじめられなきゃいけねーんだよ。。。
名作「走れメロス」が引き起こしたイジメ
何度転校しても、どこへ行ってもイジメられたと書きましたが。
「これは打ち解けられるんじゃないか。」と思った学校もありました。
「信号は緑」事件の後、3回めの転校。
でも・・・
空気を読まない僕は、またやってしまうんですね。
事件が起きたのは国語の時間。
題材はかの文豪 太宰治の代表作「走れメロス」。
小学校だったから、かなり簡略化された版を使って、漢字やら読解やらやったんだけど。
・・・あの題材では友達は「ともだち」って書いてたな。
メロスの友達の名前が「セリヌンティウス」っていうのは中学で原作読んで初めて知ったさ。
で、
「メロスの帰りを待つともだちが考えたことを書きなさい」みたいな問題が出たわけです。
みんなコピペかってくらい
「メロスのことを信じ、待っていた」
みたいなことを書くわけです。
まぁ・・・
「王様が、さんざんあの方をからかっても、メロスは来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」とか書いてあるしねぇ。。
で、僕の答えはこんな感じ。
「もう帰ってきても良い頃なのに一向に姿を見せないメロスに対し、『本当に帰ってくるのか?殺されるのが嫌で逃げ出したのではないか?俺はアイツのために殺されるのか』という気持ちが膨らみ続け、そんな自分の醜い心を隠すため、そして自分の行動が間違っていないと自分に言い聞かせるため『メロスは来ます』と言い続けた。」
・・・先生、絶句してたなぁ。
あとはお決まりのパターン。
- 変人だ、変わり者だとバカにされ。
- 変わり者菌が伝染るとグループ学習ではハミ子にされ。
- 靴を隠され
- 教科書を焼かれ
- 机には毎日のように献花焼香され・・・
あの教材が良くなかったなぁ。
原作ではセリヌンティウス、「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」って描写もある。
あの題材では、
メロス:「辛かったけれど、苦しかったけれど君のために帰ってきたぞ!」
友達 :「メロス、信じていたぞメロス」
とかだったしwww
んなわけねーだろ!!!!
ってか、原作捻じ曲げたらあかんやろ。。。
今振り返ると、僕ほどひねくれるのもどうかと思うけれど、友達が一点の曇りもなくメロスを信じていたかどうか、については議論の余地があったのではないだろうか。と思うわけです。
信号は青?緑?・・・「緑」と答えてイジメられたあの頃から日本は1ミリも進歩していない!
東京都杉並区が待機児童問題の取り扱いで揉めてるのはご存知ですよね。
杉並区のやり方がまずかったのが揉めてる一番の原因じゃねーかなぁと思いつつ見ているのですが。。
アカンやろって思ったのがコレ。↓
杉並区の公園の一部を保育園にするよ説明会で、保育園の絶対数が少ないから子どもを未認可にしか入れられないことを涙ながらに訴える女性を
- 「話が違うぞ」
- 「論点が違うぞ」
- 「今はそんな話はしていない!」
- 「引っ込め」
と寄って袋叩きにする住民。
・・・これ、立場が逆で。
待機児童問題に杉並区が何にも手を打たないことに住民が公園に保育園を建てることを要望している場だったとして。
- 「サッカーができなくなる。」
- 「ゲートボールができなくなる。」
- 「防災訓練ができなくなる」
と言い出したらどうなるんだろう。
・・・「そんなことのために反対するんじゃねーよ、このカスが!!」
ってなるんじゃないかなぁ。
- 某女優さんとか
- 某アナウンサーとか
- 某バンドのメンバーとか
・・・
言い出したらきりがないし、直接被害受けたわけでもないのに特定の個人に言及するのはおかしいと思ってるので、この辺にしとくけど。
結局。
こういうことじゃね。
杉並区の保育所建設に反対する住民を見ていると、「民主主義」がいかに「愚民主主義」に陥るかがよく分かる。
保育所が必要と涙ながらに訴える少数派の母親に対して、多数派の住民たちがヤジを飛ばして、発言を封殺している。
それだけでも、多数派が少数派を圧殺する「愚民主主義」になっているのだが、彼らは気づくまい。驚くべきはあの話し合いの場所に、子供がいることだ。
子供が挙手して発言しようとしている。
子供は公園でサッカーができなくなるから、保育所なんか作るなと言いたいのだ。保育所を作るスペースは公園の三分の一なので、ボール遊びが出来ないわけではない。
ただ、サッカーはできなくなるらしい。働かなければ生きていけない赤ちゃんを持つ母親VSもはや保育所を必要としない子育て中の母親、という対立が出来ている。
「保育園落ちた日本死ね」と叫ぶ切実な母親の気持ちも、「子供をのびのび遊ばせたい」という母親には、届かない。
まとめ
「正しいかどうか」より「どちらにつけば有理か」
なんじゃね?
今世の中を動かしてる基準って。
僕がいじめられてた頃から進歩してないというより、真田が主をとっかえひっかえしていた戦国時代から変わってないというこの滑稽さ。
年号が何度変わっても、時代は常に戦国時代ってことか。。。